STORY

Lynx の物語

Lynx

  僕が家で暇つぶしできるものはないかとおもちゃが入っている箱を開けたら、そこには見たことのないものがあった。本当におもちゃなのかどうかもよくわからない。人形のようではあるけれど、継ぎ目がまるでない体はあまりに精巧で、いつも孤児院に寄付される使い古したものと違っていた。つやつやと光沢がある肌は冷たそうに見えたのに、つかんだらほのかに温かかった。

 何よりそのおもちゃはこちらをじっとみつめている。

「こんにちは」

 僕は人形の口がはっきりそう動くのを目にして、危うく人形を落としてしまいそうになった。人形は急な衝撃にうろたえる様子すら見せず、変わらず僕を凝視している。声はたしかにこの人形からしたようだ。電子音だったが、以前校外学習で科学館に行ったとき迎えてくれたロボットの声より、その声には感情がこもっているように感じた。

「こんにちは、気づいているなら返事をしてください、雪」

「……こんにちは。どうして僕の名前を知っているの?」

「全て知っています。リンクスから聞いていますから。名前は雪、年齢は十歳、小学生、孤児を理由にいじめられている」

 返事をしたくなかったから、このまま箱を閉じてしまおうかと考えた。それこそこの人形は僕をいじめるために、ここに置かれているのかもしれないじゃないか。録音テープが近くにあるのかもしれない。

「気分を害しているのですか? 悪く思わないでください。私も来たくてここに来たわけではありません。仕事で来たのです」

 少し興味がわいたが、やっぱりどこか不気味で沈黙し続けていると、人形はあっさり僕の手から抜け出して、おもちゃ箱に腰かけた。幸い今この場には自分と人形しかいなかった。

「仕事が済めば帰ります。協力してください。あなたにも得がある話ですよ」

「……僕の得になることってなに?」

「まあ聞いてくださいよ。手短に話しますから。

 私は異世界から来ました」

 人形は平然とそう言った。

「異世界ってどこ? どんなかんじ?」

「ロボットしかいない世界です、ただ一人を除いて。それがリンクスです。私を含めその世界にいるロボットはかつて人間だったのですが、リンクスのオリジナルがサイボーグの研究をしていて、数千年前に人間の精神をロボットに移植させることに成功しました。それ以来私たちは自分の仕事をこなすうえで最も適した体をいつでも手に入れられるようになり、お互いの能力は均衡しました。全員が同じ能力を持っているわけではないけれど、どんな能力だって体を変えさえすれば手に入る。その意識が自分が持たない能力への嫉妬をなくし、自分が持っている能力で役割を果たすという責任感を育みました。世界は発展し、平和になりました」

「リンクスのオリジナルってなに?」

「精神の移植を可能にした発明家のことです。けれども彼は亡くなってしまったので、その代わりに試験管で生み出されたのがクローンのリンクスです。クローンのリンクスの世話をするのが、私の仕事でした」

「……過去形なの?」

「些細なことで喧嘩してしまって、モルモットのケージに入れられてしまったのですよ」

「モルモットのケージってなに?」

「ここですよ」

 僕は部屋を見回した。この施設で動物は飼っていなかった。僕は首をかしげながら「……おもちゃ箱?」と尋ねた。

「いえ、この地球です。私たちロボットは発展していくに従って、自分たちの世界が滅びてしまわないように、モルモットとモルモットの生きる世界がそのように滅びてしまうのか研究するようになりました。たくさんのデータを集めてシュミレーションすれば、私たちの世界が滅びる前兆を察知して、回避できますからね」

「……モルモット? モルモットは動物園にしかいないけど……?」

「モルモットはあなたたち人間です」

 こんなことをはっきり言うなんて、やっぱりこれはいじめの一つなのかもしれない。

「ああ勘違いしないでください。私の言い方は少し間違っていました。私たちが所有する宇宙とその中の天体はほぼ全て実験対象ではあるけれど、この地球とこの地球を包む宇宙は例外です。リンクス個人の持ち物なので、試しに隕石を落としてみたり、ウイルスをばらまいたりしたことはありません。地球が誕生してから自然のままにこうなったのですよ。他の瓶詰の宇宙がモルモットのケージなら、ここはドールハウスみたいなものです。中で生活する人形を想像して、快適に暮らせるように新しい道具をプレゼントすることもありました」

「……プレゼントって例えば何だったの?」

「火です。気まぐれに与えてみただけだったようですが、そのおかげでここまで人類が発達しましたし、彼は大いに満足していると思いますよ。ここ千年はいつも楽しそうに地球を見ていました」

「……僕の得になることってなに?」

「サルを人間にするものだってプレゼントできるのですから、何だってしてあげられますよ。あなたの願いを一つ叶えます。もっとも今回願いを叶えるのはリンクスではなく私ですけれど、あなたの数百倍の時を生きて科学の発展と自国の平和に貢献してきた私が、たかが子供の望みに応えられないとは思えませんね」

 僕は軽くむっとして、簡単には叶えられないような願いを必死に考えようとした。その思考を遮るように人形は「とはいえダメなものもあります」と悪びれもせず言った。

「どんな願いはダメなの?」

「ここはリンクス所有のドールハウスだとしても、私たちロボットにとってはやはりここもモルモットのケージなのです。外部からほとんど干渉されていないこの星のデータは貴重です。どんな願いでも構いませんが、あまり周りの生態を変えてしまうものは受けつけられません」

 よくわからない。周りを一切変化させない願いなんてあるんだろうか。

「もう少し優しく言うと、つまりあなたは私の存在を周りに悟られてはいけない、そのうえで個人的な願いを叶える。戦争や貧困をなくすだとか、社会を大きく変えてしまう願いはやめてほしい、ということです」

 はじめからそんな願い、考えもしなかった。

「ところで僕は願いを叶えてもらうために、どんな協力をしなければならないの?」

「やっと本題ですね。私はリンクスと喧嘩して二人で暮らしているところどころか、国さえ放り出されて地球にやってきました。もちろんこんな菌が蔓延っている不潔な場所、さっさと立ち去って国に帰りたいのですが、リンクスは一つ条件を出しました」

「条件ってなに?」

「恥を探して持ってきなさいと言われました」

 僕は急に不安になった。「恥」なんて抽象的なものを持って来いなんて、何を考えているんだろう? リンクスはクローンとはいえ、人間のはずなのに「恥」は持ち運びできるものだと思っているのか?
「……君はその言葉をどんなふうにとらえたの?」

「恥、①面目を失うこと、はじること。②はずかしいと感じられる行為や事柄、と辞典にありますね」

「それをどうやったらリンクスのところにまで持っていけると思う?」

「いえ、恥そのものは概念ですから、持っていくことは不可能でしょう。だから私は恥の象徴になるようなものは何だろうかと考えました。それだったらどうにか持っていけるかもしれませんからね。出題者のリンクスの立場で考えようとしたとき、彼が常に見ている地球の映像に何かヒントはないかと考えて、彼の視線を集めているものは何か、統計を出しました」

「リンクスはいつも何を見ていたの?」

「あなたでした」

「……なんで僕を?」

「わかりません。でもあなたにヒントがあるのではないかと考えて、あなたのところに来ました。というよりはじめはあなたをリンクスのもとに連れて行けばいいのではないかと考えました」

「……僕が恥の象徴だと言うつもりなのか?」

「さあ、私は正直恥というものがよくわからないので、はっきりしたことは……。ロボットとしての生活が長くなると、人間だったころの感情がわからなくなってしまって。けれどもあなたについては調べましたが、あなたはたしかに自分のことを恥ずかしいと思っていますよね?」

 答えずに、今度こそ箱を力づくで棚に押し込んで、クローゼットの扉を閉めてしまうと、僕はその前に座り込んだ。西日が差しこんでごちゃごちゃと散らかった室内が浮き彫りになると、どの家具に日が当たってできたのかわからない影が、体に縞模様をつくった。三メートルも離れていない場所に誰もいないことは珍しくて、ふと今二段ベッドの陰になっているところに、上級生が小銭を貯めている缶があることを思い出せば、すぐにでも伸びてしまいそうな手があり、その手には買えなかった連絡帳の代わりにメモが刻まれていた。

 同じ部屋に誰もいない日なんて、こんなぜいたくな日はないのに、無駄な時間を過ごしてしまった。

 「いつだってあなたが望むときに一人になれるんですよ、私がいれば。私の存在がばれるわけにはいかないので、人払いならいつでもしましょう」

 人形はいつのまにか隣で体育座りしていた。空中に寝そべったっておかしくなさそうな人形が、子供のように膝を抱えている様子は不自然だったし、僕に取り入るような言葉は不愉快だった。

 僕はあぐらをかいて座りなおすと、人形を軽くはたいてみようとした。たしかに人形に当たるはずだったのに、人形は半透明に透けて、僕の手はむなしく空を切った。この部屋を出たら、一人きりで過ごせる時間なんていつ手に入るかわからない。いっそのこと認めてしまえばいいのかもしれなかった。連絡帳一冊買うためのお金を盗みたい衝動は、恥に思えた。異世界から来たロボットにすら見透かされている恥を、必死に隠そうとする方が見苦しい。

 「……なんで僕をリンクスのところに連れて行くことをやめたの?」

 「あなたは社会的に見て弱者でした。どんな子供もまだ自分1人で生きる能力がないという意味で無力であり、庇護下に置かれているという意味で不自由です。一般的な子供はそれに気づくのにあと5年はかかるでしょう。そのときは理解できないままに、自立していく過程として大人に反抗するようになる。はっきり自覚するようになるのには10年以上かかるかもしれません。子供から大人になったとき、はじめて自分が無力で不自由でありながら、守られていたことを知るでしょう。

 けれどもあなたはすでにその無力感と不自由さを知っている。10歳になる遥か前に。それに気づくしかなったのはあなたが置かれた境遇でした。あなたは物心つく前から児童福祉施設に入れられ、与えられるものは必要最低限、欲しがれば手に入るわけでもない。行動は制限され、どんなときでも集団の中の一人であった。あなたが置かれたのはたしかに法に則れば庇護下であったかもしれません。ですが現実は程遠く、あなたがいる場所は管理下であったし、もっとひどければ監視下した。プライバシーも何もないこの家の中で、自分の感情が冷やかしの対象にならないように隠す努力が必要だった。それは学校でも同じことで、あなたは常に自分の感情が大きく揺れることがないようにしていましたね。感情を恥じていたのです。

 私はそれに気づいてすぐにあなたをリンクスのところに連れて行ってしまおうとしたのですが、リンクスは人間で、私たちロボットより思考能力、スピードがはるかに劣っていても、長年の付き合いから、私がリンクスを分析することでしか恥に辿りつけないとわかっていたのだと思います。地球に来る前に釘を刺されました。『雪を連れてきては駄目だよ』と。『あの子そのものが恥であるわけではないんだから』と言っていました。

 私は振り出しに戻ってしまったので、仕方なくヒントを探してあなたのところへ来たのです」

 僕はポケットに隠していた割りばしで作ったピストルを部屋の電灯のひもについているぬいぐるみに狙いを定めた。輪ゴムは見事に命中し、ぬいぐるみは激しく揺れた。おそらくここに暮らしてきた何人もの孤児が似たように遊んできたのだろう。もとはピンク色だったティディベアは灰色に汚れて、片方の目のビーズは今にも取れそうだった。

 「……ヒントと言ったって、僕は何も知らないよ。恥の象徴なんて思いつかない。でも挙げればキリがない気もするな」

「例えば?」

「水性のペンで書かれたせいでにじんだこの手のメモとか、女の子がランドセルにつけているかわいいクマが、ここでは常にうさ晴らしのための的になっていることとか。周りにあるものはだいたい薄汚い。君にとってこんなイヤな場所ないんじゃない? 君が座っている場所、この前僕のベッドの下で寝ている奴がゲロ吐いたところだよ」

 人形ははじめて慌てたように体育座りのまま空中に飛び上がった。人形の頭上に天使の輪のようなものが輝き出して、僕はまぶしくて思わず手で光をさえぎった。沈みかけの夕日と違ってエネルギーに満ち、爆弾を投下した直後のような光を、人形はポーズを変えながら浴びていた。

 「……なにしてるの?」

 「……深紫外線による消毒」

 僕は内心ざまあみろと思った。

 「……手に書かれているメモと汚れたティディベアでは共通点が見出せません。それのどこが恥の象徴なんですか?」

 「世間とのギャップに気づかされてしまう何かってことだよ。僕が普通の家庭に生まれていたら、水性のペンでも油性のペンでも好きに選べたんじゃないかな。僕は学校の落とし物を集めている箱からしかペンを選べなかった。本当の持ち主は困っているかもしれないけど、その子はきっと何色のペンだって買ってもらえるんだよ。

 僕にプライバシーがあったなら、あそこに吊るされているティディベアを一回くらい洗ってあげることができたと思うんだ。僕は別にあのティディベアが嫌いだから的にしているわけじゃない。むしろせっかくかわいいぬいぐるみなんだから、きれいにして抱いてみたいってはじめてここに来たとき思ったんだ。でもそんなことしているところが見られたら、女みたいな奴ってなめられるかもしれないし、みんなと同じように振る舞っていたら、ティディベアがかわいそうだと思わなくなったんだよ。普通ならおもちゃを乱暴に扱ったら怒られるだろうけど、そんなこと言ってくれる人は誰もいないんだ。

 学校で知り合う子それぞれに違う家に生まれて、よそとうちとのギャップを感じているはず。でも家庭がある子と僕たちの溝は大きい。その溝は恥と言えるんじゃないかな」

 「その溝を感じさせるものが所々にありすぎて、あなたは恥の象徴を選ぶことができないってことですか?」

 「そういうことになるかな」

 人形は空中に浮いたまま三六〇度回転した。僕が恥を投影してしまいそうなものを選び出して、あきらめずに分類しようとしているのかもしれなかった。僕には無意味に思われた。

 「……なにかヒントになった?」

 「いえ、あなたの言いたいことはわかりました。たしかに恥はあなた自身ではない。ここにあるものでもない。けれどもあなたが自らの感情を恥じていることは変わらぬ事実です。それは同じ家に住みながらお互いに気を許していない孤児たちの目、学校などで感じるはみ出し者を見る視線によって感じさせられる。そこにヒントがあるように思うのですが……」

 僕はティディベアを見やった。ティディベアは電灯のひもに吊るされて、いつも多くの孤児の視線にさらされてきたはずだ。その視線はほとんどの場合無遠慮で、不躾なものだった。ティディベアがただのぬいぐるみだと考えれば、わざわざ問いただすようなことではない。でもティディベアが浴びている視線は、僕が常に感じている視線とほぼ同じではないか?僕はティディベアと目を合わそうとしてみた。よく見てみるとだらりと垂れたビーズだけは、きれいなままだった。誰に手入れされることがなくても。僕はそのとき閃いた。

 「目を、リンクスのところに持って行ったらどうかな?」

 「目、ですか。たしかに孤児たちの目や学校などで感じるはみ出し者を見る視線とは言いましたけど、ここにいる孤児の目だけで一〇〇を超えますし、あなたの学校の生徒や教員の目も、となったら一〇〇〇の目玉を奪い、リンクスに届けることになります。それだけの量であれば説得力はあるかもしれません。ですがあなたの周りのどれだけの目が、恥に値すると思いますか?」

 僕はギョッとしてこの質問に答えた。

 「そんな残酷なことは考えていないよ、自分を見ている人間の目を片っ端から見えなくするなんて、それこそ『生態を変えてしまう』じゃないか。いくつの目玉が恥に値するかなんてわからないけど、とりあえず一人の目玉でいいよ」

 「それは誰ですか?」

 「……そこまではまだ考えていない」

 誰がいいだろう? 一番に思い浮かぶのはやっぱり自分をいじめている奴らだ。その中の一人でも失明することがあれば、少しは日頃の行いを反省するきっかけになるのではないか。目が見えなくなれば、当然今までと同じ生活は送れない。白い杖をついたり、盲導犬を連れるようになるかもしれない。見た目に表れる明らかな変化を周りにいる子供を見逃さないだろう。内心もの珍しくて、下世話な好奇心から観察してくる子、本人がいなくなるたびに誰かに報告せずにはいられない子が出てくる。どちらもはじめは「かわいそうに、気をつかってあげなくちゃ」が建前だった。だから休み時間に遊ぶ時間を割いてまで言うことはないけれど、代わりに掃除の時間、クラスがバラバラになって4~5人ぐらいのちょうどいい人数になったとき、なんてことはないように話し出す。それでいてその顔は本日の議題を持ってきましたとばかりに自慢げで、本当は話したくて我慢していたことがわかるんだ。会話に混じらない子だってみんな同じ。この話題にふれたくてしょうがなかったけど、先生に怒られるのはめんどうくさかったから、黒板なんか拭きながら背中越しに聞いている。気づけば大勢とその子の違いがクラス全体に共有されていて、ただ「違う」っていうことが悪い意味を持つ。悪い意味を持たなかったとしても、「違う」一人を省くことで結束間が生まれる。そういう立場にあの連中の一人を追い込めたら、きっと気持ちいい。

 でもそれで絶対にいじめが終わるかはわからない。目が見えなくなれば、視覚障がいを持つ人が行く学校に移ってしまうかもしれない。そうしたら僕は、たった一人のはみ出し者としていじめの対象であり続けるしかないのか? 

 第一こんな理由で誰かの目を見えなくしていいのだろうか。「恥」なんて重い言葉にその目は釣り合っているのか?

 「……もし君なら、誰の目を選ぶ?」

 「わからないからあなたのところにやってきたんじゃないですか」

 「それはそうだけど、例えばだよ。僕は最初に自分をいじめている奴らの誰かの目を奪いたいと思ったけど、ピンとこないんだ。君は嫌いな奴とかいないの?」

 「精神を機械の体に移して数百年経つと感情が鈍くなってしまって、嫌いとかそういうことはあまり思わないんですよ。そんな不愉快な感情をない方が楽ではないですか。ただ私としては最も自分に効果的な目を見えなくしたいですね」

 「効果的ってどういうこと?」

 「あなたが自分をいじめている子供の目を奪いたいと思っているのは、それによっていじめが終わると思っている部分があるからですよね。相手が自分とは異なるにしても少数者の側に立たせることで、反省を促したい。あるいは突然の不幸を日頃の行いの報いに見せかけて、いじめの抑止にする。どちらでも結構だと思います。ただしそれによって本当にいじめが終わるのかはわからないし、今後中学校、高校に行ったときに環境が新しくなればまたいじめられるかもしれませんね。つまり今の現実から脱するために目を奪うということになる。それだとなんていうかもったいなくはありませんか? もっと根本的なことを解決するために目を見えなくした方がいいような気がします」

 「根本的なことってなに?」

 「あなたが自分自身に感じている恥の意識を取り去るために、誰かの目を奪えばいいのですよ。周りがあなたをいじめるのは、あなた自身が孤児であることにコンプレックスを抱いていることが透けて見えて、つけ込みやすいからです。周りの環境はプラスかマイナスどちらの方向かはわからないにしても、時間が過ぎれば変わっていきます。時が過ぎれば解決されるかもしれないいじめより、どんな環境にいても変わらないでいられる自分を作るために、暴力はふるうべきです」

 このロボットは恥にいくつの目が釣り合うのかなんて、まるで人間を人間として見ていないかのような言葉が簡単に出てくるのに、僕が誰かの目を奪うことは暴力という言葉を使うのか。そうだ、たしかに暴力だ。してはいけないこと。でもその暴力はいつも僕にだったら向けてもいいかのように考えられている気がする。誰も見ていたって止めてくれるわけじゃない。

 それに、「暴力」という言葉なら「恥」に釣り合いそうだ。

 じゃあどうしたらコンプレックスをなくすことができるんだろう?

 僕は自分の周りの子供が持っている万能感のようなものがなかった。例えば道徳の時間、将来の夢というテーマで作文を書かされると、ほとんどの生徒はサッカー選手だとか、パティシエになりたいだとか、おそらくはほとんどの子供が叶えるここができないか、叶えるつもりすらない憧れの仕事を答える。僕は施設で育った先輩たちが、自分の境遇を原因に中学生くらいになるころから荒れていって、トラックの運転手や定職にも就かずふらふらとその日暮らしをすることになったのを何人も見た。トラックの運転手やその日暮らしが悪いと思っているわけではない。ただこんな大人にはなりたくないと思った出来事が、小学校に上がりたてのころあった。

たいていの卒業生はこの施設に帰ってくることはないけれど、以前一人だけ三か月に一回くらい何かしらの差し入れをしてくれるおじさんがいた。おじさんはここで育ってから清掃員などの職を転々として、パチンコなどで珍しく勝った日にここを訪れるようだった。僕はまだ小さかったし、素直におじさんがくれるアイスバーなんかがうれしかったのに、ちょうど今の僕と同じくらいの年の子供は軽蔑したように誰もおじさんから物をもらわなかった。上級生は面と向かっては言わなかったが、おじさんが帰るたびに散々言ったものだった。

「せっかく働いてもパチンコでお金をすって、勝てば勝ったで鳩にえさでもやるみたいにつまんない菓子なんかここに持ってくる。菓子が買えるくらいの金しかせいぜい勝てないんだよ。女をつくる余裕もない。自分の自尊心を満たすために、俺たちを使うなよ」

おじさんは3年前になくなったという。自分が住んでいるアパートで、一人で死んでいるところが発見された。台所にはカップ麺の入れ物がごろごろと転がって、何日も干されたままの洗濯物が雨に濡れて嫌な臭いがした。偶然その家を片付けることになった業者がうちの施設の卒業生で、それを喜々として報告しに来たのだ。

その卒業生があんなに嬉しそうだったのは、上級生と同じように自尊心を満たす道具として使われたという意識があったからだろうし、強がりでもあった。彼もまたあのおじさんと似たような生活をしていたからだった。自尊心を満たす場所を施設にしていないだけ。でもこのニュースだけはかつて一緒に暮らしていた仲間と共有さずにはいられなかったんだろう。おじさんのときとは違って、このニュースはほとんどの施設の子供に歓迎された。人の不幸を笑っているうちは、不思議とその不幸が自分にとってすごく身近で、いつ同じ境遇に追い込まれてもおかしくないことを忘れることができた。

 なりたくない大人はおじさんではない。おじさんは軽蔑されていたし、上級生の年に近くなった今、僕にもその気持ちはわかる。でもあのアイスバーを食べている時間、僕は自分の立場に無知だったのかもしれないが、ただ純粋においしかったし、楽しかった。僕がなりたくないのは鳩の意識を持ったまま大人になり、人の不幸をあざ笑いながら、自分の現実から遠ざかろうとする大人だった。現実はどうしたって帰ってこなければならない場所なんだ。人の不幸は自分の居場所になったりしない。自尊心を満たしたりはしない。僕は何かで埋めなければならない自尊心ではなく、自分の内側から出る自尊心を信じたかった。

 僕はそのとき目を奪いたい人の顔が一人思い浮かんだ。

 「誰の目を奪うのか決めたよ」

 「誰です?」

 「ふーくんの目をリンクスのところに持っていて」

「ふーくんとは誰ですか?」

「ふーくんは…… はじめて会ったのは一年前で、大学で福祉活動をするサークルに入っているから、うちの施設に出入りしているんだ。割とよくこの施設に来ているんだけど、リンクスと一緒に映像で見ていたりしないの?」

 「知りませんね。リンクスは一人一人の人間の区別がついているかもしれませんが、私にはどれも同じに見えてしまって。あなたみたいにわかりやすい特徴があると覚えやすいんですが」

 「僕のわかりやすい特徴ってなに?」

 「目ですよ、あなたの目はこの土地のほとんどの人間が持つ黒から茶色の目と違って、茶色に青が混じっているではないですか。目鼻立ちも彫りが深いですし、見分けやすいですよ」

 それは僕がいじめられる一つの原因でもあった。この見た目のおかげで第一印象はそこまで悪くないらしかったが、そこに孤児という要素が加わると、奔放な母親か父親が想像されて、外人と夜遊びしていて子供ができてしまったけれど、責任は取れなかったんだろうというストーリーを勝手につくられてしまう。大人がそういう考えをもとに僕に接すれば、子供は僕をいじめることに罪悪感なんて湧かない。

 「ふーくんは一年前から福祉サークルの活動で、僕に一対一で勉強を教えてくれている人だよ。今ちょうど二十歳だったと思う」

 「勉強を教えてもらうのに、何か嫌なことでもあったのですか」

 「何もないよ。むしろふーくんと勉強している時間はいつも楽しかった。毎週一緒に勉強する時間が待ちきれなかった」

 それはふーくんと過ごす時間だけは今と同じような静かに過ごすことができるからだった。この施設を取り仕切っている篠原さんも、子供に勉強させられる機会は大事にしたかったようだし、単純に少人数の職員でたくさんの子供の様子に気を配らないといけない中で、ボランティアに子供を任せて置ける時間はありがたかったのかもしれない。

 勉強自体はそこまで難しいと思ったことはない。小学校の授業についていけないと思ったことはないし、テストの点数もクラスでトップに近かった。はじめて自分とペアになったボランティアの大学生は、僕がどれくらい勉強できるのかテストするでもなく、小学3年生の僕に、二年生のテキストを持ってきて、簡単な計算、漢字のドリルを延々とやらせた。児童養護施設で暮らす子供は勉強ができないと思われやすかったし、実際にそういう子供も多かった。あのボランティアはその先入観通りに僕の相手をした。僕の相手をしたというより、孤児の一人の相手をした。おそらくボランティアをすること自体に楽しいだとか、やりがいを感じているわけではなくて、福祉活動をしていたことが就職活動でアピールポイントになるから、僕の前に座ってスマホをいじったりなんかしながら時間を潰している。それで構わなかった。僕は内心簡単すぎるドリルをこなしながら、考え事にふけることができた。

 僕を担当するボランティアがふーくんに変わると知ったとき、何も求めていなかった。そちらは人助けを自分の評価を上げるためにやる、僕はその時間を利用して一人の時間を満喫する。ウィン・ウィンの関係。下手な善意を持ってボランティアをする人間なんて、逆にやっかいだ。親切な顔をしていれば、どこまでも踏み込んでいいと思っている。土足で踏み荒らすだけ踏み荒らして、サークルを辞めれば責任を取ることも必要ない。

 そのどちらかの種類のボランティアしか見たことがなかった僕は、ふーくんを分類しかねて戸惑った。何より初対面の反応が不自然だった。職員を介して自己紹介をすることになったとき、僕が形式的に挨拶を済ませたら、ふーくんはそれに答えないでしばらく固まっていた。ボランティア活動は児童養護施設だけで行われているわけではないし、本当は街の清掃活動をしたかったけれど、人員の関係で苦手な子供の相手をさせられることになってしまったのかもしれない。緊張しているようだった。職員に肩を叩かれるとはっとなったようで、軽く頭を下げると早口でこう言った。「ふーさん、とよく呼ばれる。あんまり自分の名前が好きじゃないから、ふーさんか、それ以外でもあだ名をつけて呼んで」それだけ言うと、そそくさと他のボランティアに声をかけに行ってしまった。

 篠原さんはその様子の報告を受けていたのか、見ていたのか、後から不思議そうに僕に言った。「少し近い寄りがたい雰囲気はあるけれど、私たちには礼儀正しいし、子供に勉強を教えるのもうまい。サークル内でも積極的に動くから慕われていて、みんなをまとめられるようなしっかりした子だと思っていたんだけど、今日はどうしたんだろう? なんであんなにうろたえていたのかな」

 周りが受けている印象は正しくて、ふーくんは僕の勉強を真剣に見てくれた。ぎこちなさは相変わらずあったものの、僕がどんなふうに学校で勉強をしているのか、どの程度勉強できるのか、ちゃんと知ろうとしてくれた。僕が今学校で習っていることに問題なくついていけていることがわかると、これから学年が上がったり、中学校に行ったらどういうことを習うのか大まかに教えてくれて、それを先取りしたいかと聞かれた。僕にそういった意欲は特になかった。でもそうはっきり言ってしまったら、僕の成績に期待している篠原さんに報告が言ってめんどうなことになるかもしれなかった。僕が答え方に迷っていると、ふーくんは黙って待っていた。善意でボランティアをしているのなら、僕たちがなぞるであろう卒業していった先輩たちの現在のことすら知らず、将来のために勉強がんばろうよ、なんて言いそうなものだったが、そういうことをいう様子はなかった。ふとふーくんが思い浮かべている将来が気になって、僕は尋ねた。

 「ふーくんは、将来のために勉強した方がいいと思うの?」

 「……そうだね、勉強をすれば、将来の役に立つと思うよ。今学校で習うことが直接的に役に立つとは思わないけど、勉強を頑張っていわゆる名門校に行ったとする。学歴がすべてではないにしても、学歴はその人が努力できる人間だということをわかりやすく示せるものなんだ。人に認めてもらったり、信用してもらいやすくなる部分はあるかな」

 「でもお金をたくさん持っている子供は小さいころに私立の幼稚園なんかに入れられて、そのままエスカレート式で有名大学に行ったりするよね。そんな人は特に努力していなくても、信用される人間になれるってこと」

 否定されるかと思ったが、ふーくんはあっさり「そうだよ」と言った。

 「衣食足りて礼節を知るなんて言葉もあるしね。お金があって毎日快適に過ごせるからこそ、心に余裕も生まれるというのは一理あるんじゃないかな。お金があると、お金がある家に生まれると、それだけで満たされて育つはずだって信用されるんだよ」

 僕は子供がとっくに気づいてしまっている不条理を、必死に言わないようにしている周りの大人が嫌いだった。ボランティアが小さい子に絵本の読み聞かせをするとき、親子の物語を選んではいけないというルールがあるらしい。小さい子は一時的にここにいるだけで、いずれお父さん、お母さんが迎えに来ると考えている子もいるから、その配慮は当然必要なものなんだけれど、この環境にいてその理不尽にずっと気づかないなんてことはありえない。遅かれ早かれ気づかされるのなら、誰かに真正面から言ってほしかったような気もする。

 でもいざ言われると答えには窮してしまった。咄嗟に意味がよくわからにことを言ってしまった。

 「……ふーくんは僕にそんなこと言っていいの?」

 ふーくんはまたうろたえたような、いやそれ以上に傷ついたような顔をして僕を見た。周りのボランティアがときたま僕に向ける憐れみの視線ではなく、本当に心をえぐられたかのように瞳が揺れているのに、絶対に僕から目をそらさなかった。

 それから口が何か言いたげに開きかけると、ポツリと「責任はない」と言った。

 「え?」

 「雪が生まれて背負うことになった環境は雪のせいじゃない。雪はどこにいたって自分のなりたいものを目指していいんだよ。そのために勉強が必要だと思うならすればいい。したくないならしなくてもいい。ただ僕は…… 武器を手に入れてほしいんだ」

 「武器ってなに?」

 「戦うための道具だよ。やりたいことをやりたいのにそれをさせてくれない環境から逃げ出したり、それを阻む人が遠ざけたりするのに、武器がいる。自分が得意で他の人に負けないというものを作っておくんだ。勉強することは学校でほとんどの子供がやることだから、ライバルも多いし、なかなか一番にはなれないかもしれない。でも勉強することで、世の中にどんな武器があるのかということを知ることができるよ。それを教えられたらいいって思う。

 雪は自分だけの武器を手に入れて、戦える、強くなれるんだ。もちろん雪次第だけど」

 ふーくんは僕から視線をそらして自分の手を眺めた。ふーくんの手にはペンだこができていて、小指のふくらみが黒く汚れていた。どこか自分に言い聞かせているような言い方だった。たくさん勉強しているのかもしれない。ふーくんが行っている大学もかなり偏差値が高い学校だったはずだ。

 

 「ふーくんは他のボランティアと違っていた。大人が言わないようにしている、世間から見て、僕らがどういうふうに見られているのかを、客観的な事実としてはっきり口にした。他の大人たちは僕たちのことが憐れに見えているんだよ。かわいそうなみなしごに見えているんだ。当たり前の現実…… 僕らにとっての日常を言わないことは、見えているものを見えていないと言うことだった。周りの大人は僕に強くなれなんて思ってなんかいない。持たないなりに強がれと思っているんだ。

でもふーくんは事実だけを口にした。嘘はつかなかった。突きつけられた現実は気づいていたもののはずだったのに、それでも普段あえて大人にならって見えていないことにしていたから、言われた瞬間はどうしたらいいかわからなくなってしまうこともあった。でもそうして固まった僕を見て、僕以上に動揺しているふーくんを見ると、ふーくんが僕を馬鹿にするためにそういうことを口にしたわけではないことがわかったし、対等な人間だと思っているからこそ、言ってくれたことがわかるんだ。ふーくんだけは僕に強がりじゃなくて、強くなれって思ってくれていると信じていた」

「信じていた? 今は違うんですか?」

「今もふーくんの言葉を信じている。でもふーくん自身を信じることはなくなった」

「どうしてですか?」

「冬ごろに、うちの学年の子供のほとんどの子供が十歳になって、学年の担任が二分の一成人式をやりましょうと言ったんだ。熱心な先生だったけれど、えこひいきすることで有名な先生だったから、一部の生徒を除いてうんざりしていた。特に僕は逆の意味でえこひいきされるから、気が遠くなりそうになった。その先生は、自分が今までどういうふうに生きてきたのか、何歳のころいいことがあって、何歳のころ嫌なことがあったのか写真や絵なんかも入れながら線グラフにしましょう、十年後あなたたちが就職活動をするときに、おそらく自分史年表というものをつくります、自分が生きてきた時間のアップダウンを振り返ることで、自分がどういう人間か知ることができて、それをもとに就職活動をするのです、と言っていた。たしかにふーくんに聞いたら就職活動でそういうことをするらしい。でもたった十年間生きて、赤ちゃんのころのことは覚えていないから、自分で書けるのはせいぜい小学校に入学してからのことだけ。それ以前のことはご両親に聞いて作りなさいと言うんだ。孤児の僕にそんなこと聞く相手なんていないじゃないか。施設に預かられてからのことなら、篠原さんだとか職員に聞けば少しはわかるかもしれないけれど、大勢の子供を見ているんだし、きっと大したことは覚えていない。僕も施設に入りたてのころだとか、覚えていない部分が多いし、思い出したいとも思わない。いつも自由に一人でいられる時間がほしかった。大勢の中ではみ出さないように淡々と生活して、今になった。グラフなんて作れるはずがないよ

他の子も僕ほどじゃないけど、どう書いたらいいかわからないんだろう。でもその子たちは代わりに写真でスペースを埋めることができる。親が取り溜めてきた写真をコラージュみたいにすれば十分この課題はこなせるし、廊下に張り出しても見劣りすることはない。でも僕に写真なんてない。小学校の遠足の写真は買えないし、運動会で写真を撮ってくれる保護者もいない、施設に来る前の写真なんて当然一枚もないんだ」

「その話のどこにふーくんの目を奪いたい理由があるのですか?」

「最後まで聞いてよ。僕は勉強の途中にふーくんにこの話をした。ふーくんはいつにも増して辛そうだった。机の上で握りしめた手に爪が食い込んでいた。僕がふーくんの手をみつめていることがわかるとさっと隠した。 ……そんな課題を選ぶなんてひどすぎるとも言っていた。僕が孤児だってことを知らない先生は学校にいないんだからね。

それからふーくんは子供に一対一で勉強を教えない代わりに、カメラを趣味にしていて施設の子供たちのアルバムを作っている同じサークルのお姉さんに声をかけて、僕が映っている写真を集めてくれた。僕は一人でいることが好きだったし、あんまり一緒に暮らしている子と遊んでいなくて写真はほとんどなかった。無理やり他の子供に肩を組まれて撮られたものや、職員と話しているときの写真は、口元は笑っていても目尻にしわが寄ることはなくて、僕の青みがかかった目が光で透けると冷たそうに見えて嫌だった。実際心から笑った記憶もなかったし、しょうがなかったのかもしれないけど。

でもお姉さんが大学で活動報告するために撮っていた写真には、思いがけず僕がたくさん映っていた。それはふーくんと僕のツーショットで、二人で背中を丸めて問題を解いていたり、僕が借りてきた本を見てふーくんが懐かしそうに背表紙を撫でている写真なんかがあった。僕は自然に笑っていたし、そこに穏やかな空気が漂っていることが写真からわかった。お姉さんは、活動報告で使うときには君に断って使うつもりだったんだよ、隠し撮りみたいなことをしてごめんね、と言った。僕は活動報告の写真に僕たちばかり映っているのを見て、なぜなのか理由を聞いた。そしたらお姉さんは困ったように、君たちが二人でいると、なんていうか ……いい意味で二人だけの世界に閉じこもっているみたいで立ち入ってはいけないと思うの。二人とも感情をはっきり表に出すタイプではないけど、お互いが一緒にいて安心できることが伝わってきて、雰囲気がすごくいい。ずっと前から知り合いみたいだね、と言った。

たしかに僕は一緒に住んでいる施設の子にすら感じない、常に自分がどう見られているのかアンテナを張っていないといけない緊張感から解放される感覚を、ふーくんといるときだけ感じていた」

「……ふーくんは何をしたんですか?」

「ふーくんは何もしていないよ」僕は答えた。それからあのとき感じたくやしさを思い出して、奥歯を噛んだ。暇つぶしを考える前、どうしてもお腹が空いていてガムを飲み込んだあとの清涼感が口に残っていて気持ち悪かった。

「僕がクラスで恥をかくことはわかっている。でも予想以上に年表を作りこめたことがうれしかった。ほんの少し今の環境に抗えたんじゃないかと思った。年表を作るのを手伝ってもらって、僕は自分自身を理解したという実感は持てなかったけど、ふーくんに僕のことを知ってもらえたことがうれしかった。ありのままの自分を気づいたらすべてさらけ出してしまっていて、普段なら焦ったはずなのに、僕はそれですっきりしていた。これならいつもよりしっかりした態度で発表に臨めると思った。

そんなとき写真をくれたお姉さんが近くに来て、僕は珍しく雑談をする気になった。他愛のないことを話した。お姉さんが急に思い出したみたいに、ふーさんが君との写真を一枚欲しがっていたからあげたけど、構わなかったよね? と聞いた。僕は別に嫌じゃなかったけど、どの写真をもらったのか気になったから、ふーさんが席を離れている隙にこっそり鞄の中を漁った。写真はわざわざフォトケースに入れられていた。今どき写真をプリントアウトすることだって珍しいのに、ケースまで用意しているところとか丁寧でふーさんらしいと思った。写真には僕とふーさんが横並びに座って勉強をしているところが映っていて、ふーさんはテキストの解説をしていたけど、僕はあんまり集中してないみたいにふーさんの横顔を見ていた。ひねった首、いつも正面からしか鏡を見ないし、僕は左耳の付け根あたりにほくろが二つ並んでいることなんて知らなかった。なんとなく次のファイルをめくってみたら、青い目をした赤ん坊がこちらをみつめている写真がドアップで映されていた。その子は誰かの胸に抱かれているらしく、首も座らない様子で右に顔を傾けていた。左頬に、皮膚の下から透けたようなほくろが二つ並んでいた」

「あなたが赤ん坊だったころの写真を持っていたってことですか?」

「そんなはずはない。職員は誰も僕がどうして施設に連れてこられたのか説明してくれなかったけど、乳児院にもいたそうだから、ほとんど産まれた直後に僕はここに連れてこられたはずなんだ。孤児になることが決まっていたんだ。……写真が撮られていたのかどうかさえ怪しい。僕が赤ん坊だったころの写真じゃなくて、僕と同じところにほくろがある赤ん坊の写真をネットで探してきて、目を青く加工したんだろう」

「でもなんでそんなことする必要があるんですか?」

「もうすぐ年表を完成させる僕にプレゼントするつもりだったんじゃないの? 僕が孤児だってことはみんな知っているって説明したのに、これを加えておけば、ごまかせるとでも思ったんじゃないの?」

僕はまくしたてるように言って、肺に固いものが詰まったように息が苦しくなった。

 「本人に確認したんですか?」

 「するわけないじゃないか。鞄に放り込んで何も言わなかったよ」

 「……それであなたはふーくんの目を奪うんですか?」

 「……そうだよ」

 改めて確認されると、少し不安になった。でもそれ以上に怒りが勝った。僕のことを暴くだけ暴いて、偽物の僕の写真を作った。僕に強がりをさせようとした。

 「……ふーくんの目はあなたにとって恥なんですね?」

 「恥…… なのかわからない。とにかく裏切られた気分だ。はじめて色眼鏡をかけていない人に出会えたと思ったのに。……君は僕に暴力をふるうなら変わらない自分自身を作るために、と言ったよね。僕はこんな…… 写真一枚で疑心暗鬼になってしまうような自分とおさらばしたいんだ。そのために、ふーくんの目を奪いたい。同情じゃなくて、僕のためにあそこまで傷ついた表情をすることができる人でも、結局他人に過ぎなくて、僕が手に入れられるはずのない写真を用意すれば、何か変えられるんじゃないかと思ったんだ。人の不幸は想像の中のもので、現実じゃない。ふーくんが想像している不幸の渦中にいる僕は、存在していないし、それを助けようなんて不可能なんだよ。僕は僕が感じたものを現実にするし、人が感じた不幸とは決別する。そうしないと、この先あのおじさんや卒業した先輩みたいになる気がする。そのためにふーくんの目はリンクスにあげるよ」

 「そうですか。では早速彼の目を奪いに行きます。それで、あなたの望みはなんですか」

 「……僕の赤ん坊のころの写真を用意して。本物のやつ。あの写真は偽物だってはっきりさせてやる。それから母親か父親を連れてきて」

 「そのどちらも存在しなかったら、どうしますか?」

 「いいから用意しろよ。私にたかが子供の願いを叶えることができないと思えないって言っていたじゃないか。写真は君が異世界から常にのぞき見しているんだから記録くらい残っていないのか? それに両親とも死んでしまっていても、墓の場所くらい突き止められるだろ、僕に教えて」

 「……では用意します。数日後にまた現れますから、そのときは無視しないでくださいね」

「もちろん。なんで僕が孤児になったのか、やっと知ることができるかもしれない。楽しみなくらいだよ」

本当は楽しみだなんてこれっぽっちも思っていなかった。家庭の事情がどうであれ、僕を捨てたことに変わりはないんだ。どんな理由だったとしても、僕をここに放り込んだ両親なんて許せない。それこそ僕の両親は周りの大人が想像する通り、遊んでばかりの人なのかもしれない。その過程で産まれた僕を厄介払いして、せいせいしているかもしれない。僕はそんな両親相手に怒りとは別に、毅然とした態度で自分の赤ん坊のころの写真を破り捨てることはできるのか。……いっそ死んでいてほしい。

 気づけば夕日が沈んで暗い部屋に一人で座っていた。どこかの部屋でがやがやと声が聞こえる。すぐにこの部屋にも人が集まり始めるだろう。その前に鏡を見なくてもわかる、この情けない顔を何とかしなくてはならない。僕は机に宿題をさもやっている途中のように広げると、その上に突っ伏して目を閉じた。その状態で周りにみつかればしばらくは干渉されなくて済むはずだ。

 

 人形がそれからもう一度僕の前に現れたのは、一週間後のことだった。今度は僕が市立図書館に来て勉強している間に、急に周りの喧噪が遠ざかったと思うと、人形が目の前にいて、僕意外に誰もいなくなっていた。一週間の間、ふーくんには一度も会わなかった。ボランティアの人は相変わらず来たけれど、その日は臨時で別の人に勉強を見てもらって、ふーくんは休んでいるみたいだった。もしかしたら失明したせいなのではないかと思ったけれど、不思議とそれに対して罪悪感はわかなかった。ふーくんが想像した僕の不幸、それを改善するための策がまったく意味がないものだったように、僕がふーくんに与えた不幸、不自由は無関係に思えた。僕は薄情なんだろうか。勢いのまま言ってしまった言葉に後悔するとよく聞くけれど、実際のところ、僕は抑え込んできた感情をはじめて吐き出した解放感で、気分が上向きになりさえした。後悔とは別に両親に向かい合うことの緊張感はあったが、それに備えて両親と会った孤児に話を聞いてみた。十代で子供ができてしまいどうしても育てられなかった、父親のDVから逃げてきて子供を育てられる生活の余裕がなかった等々、親の言い分。子供の面会希望に応じてくれるのだから、なにかしらの罪悪感があったり、罪悪感と言わないまでも後ろめたい気持ちがあったからこそ、そもそも会ってくれたのだろうから、異世界のよくわからない力を使って両親に会う僕は、同じような答えが聞けるかなんてわからない。言い分じゃなく、言い訳を聞く可能性だって十分あるんだ。死んでいてほしい、ともう一度僕は思った。死んでほしいと思う前に。許せるわけがないのなら、せめて忘れさせてくれ。

 「こんにちは。失明させましたよ」

 「……そう」

 僕の薄い反応を意に返した様子はなかったが、あまり感情が見えないこのロボットにしては珍しく興奮しているように見えた。人形の2つの目はこれもまた信じられないくらい精巧にできていて、目を囲うように生えているまつげが風に吹かれてふわふわ揺れていた。その柔らかい印象とは反対に目は吊り上がり、赤く染まっていた。この間は青かったはず。それを見て、あまり詳しくないけれど高い値が付くアンティークのフランス人形はこんな感じなのかもしれないと思ったんだった。

 それにしても感情によって目の色を変えるなんて、この合理的なロボットが考えそうなことじゃない。利便性だけを考えて、いくらでも体の部品を変えていくと言うのだから。このロボット自身の意思でそういう目を作ったわけではないとすると、このロボットが世話するリンクスのためにこういう目にしたんだろう。僕たちが生きる世の中にも、人肌と同じぐらいの温かさを持ったぬいぐるみ、ペットの代わりをするロボットが発売されているのは知っている。命の責任を取れないからペットを飼うことはしないまでも、安らげる何かを求めていて、そういうものを購入する人。僕はそういうものを買うこと自体、どこかさびしいように感じる。それに都合が良くないか。人が他の生きているもののぬくもりを感じて安らぐには、本来いろいろなステップを踏む必要がある。それこそ命の責任を取ることがそうであったし、恋人や友人は人によって許容範囲は違えど、誠実でないなら離れていってしまう。嘘がない人間なんていなくても、嘘が少ない人間になりたい。孤児だという事実を必要がないから伝えないならいい、でも後ろめたい思いから隠し続けるのはいやだ。そのためにこれから両親どちらかの前で、写真を破く。僕は両親から生まれた。でもそれとは別に僕は自立して動く。

 「なにか怒っているの? その目」

 「ああ、感情によって色が変わるように見えるんですね。リンクスがつけたんですよ、この目は。感情を色のグラデーションに例えようという感覚が私にはわかりませんが。……そうですよ。ふーくんってとても失礼な人ですね」

 「失礼? あんな丁寧な人いないじゃないか。どうしてそんなこと思うのさ?」

 「あの人は私が恥だと言いました。その理由を本当に理解して説明できるのなら、手ぶらで帰って自分が恥だと言えば、それだけでリンクスは救われるだろうし、あなたも受け入れてもらえるだろうと言っていました」

 リンクスが救われるってなんだ? このロボットにさも感情があるかのように目の色が変化するよう細工して、地球をドールハウスとして鑑賞し楽しむようなやつがなんで救われなければならないのか? またふーくんの気の回しすぎで、こうしてカンに触っているやつがいるじゃないか。もしかしたら僕が知らないだけで、ふーくんって人をイラつかせるようなことをしょっちゅうやる人だったのかもしれない。

 「なんで? 全然意味がわからないんだけど」

 「私は彼を尋ねていって、事情をかいつまんで説明してから、あなたの目を恥の象徴として持ち帰ると言いました。むろん拒否権はないので宣言みたいなものですね。私はあなたが出した答えに不満はありませんでしたが、他の人間に聞いたら恥はどんなものであるというのか、興味がありました。彼に聞いたらすぐには答えを出さないで、まるで自分がこれから失明することなんて気にしていないといったふうに、私たちの世界について質問しました。彼ははじめ好意的でした。能力がほしいと言っていて、僕に能力があったらな…… と自信なさげにつぶやいていました。なぜなのでしょう? 彼は世間から見て有名大学に通い、十分努力して成果を出しているのに、どうしてそんな言葉が出るのだろう? 私は不思議でした。それから今まで変えてきた能力について説明しているときに、彼は段々といぶかるような目をこちらに向けるようになりました。私はなぜそんな目で私を見るのか彼に質問すると、彼は能力を変えて、仕事を変えて、生活に大きな変化があったはずなのに、それに対して無反応すぎるというのです。それはそうでしょう?」

 「そうでしょう? ってなんで?」

 「能力が変わった、仕事が変わった、それにどうして感情が波立つのでしょうか。能力を受け取り、その能力でできて然るべき仕事をした。あなたは自分史年表なんて作れないと言っていましたが、私にだって作れません。ただ仕事を消化していくだけです。それに自分史年表を作ってどうしたら自分を知ることができるのかよくわかりません。思い出したくないわけじゃありませんが、思い出す必要があると思えないので」

「思い出したくなくたって、勝手に頭に浮かんでくるじゃないか。思い出す必要がなければ思い出さずに済むものなの?」

「いえ、精神をロボットの体に移す前は当然そんなことはありませんでした。生活の中でふと記憶が蘇ることは多々あったし、それによってその日のコンディションも変わりました。ですが自分の仕事を全うするために体をカスタマイズしていくと、世界の見え方は変化し、以前自分が見えていた世界がどんなものだったのか思い出せなくなっていったのです。   

まだ精神を機械の体に移すということが新しかった時代、情勢は不安定で、戦争は頻発し、経済が苦しかった。若者は仕事にありつくためにこの技術に飛びついて、能力を際限なく手に入れては、能力同士の相性が悪くお互いが相殺したりすると、自分の体の一部に関わらずあっさりと手放した。当時はカスタマイズのお手本のようなものがなかったからとにかく試してみるしかなかったのです。老人は自分の体を無機質なものに変えることを恐れたけれど、思い切って全身サイボーグ化し、老いを忘れ返り咲いている同世代のスターを見て、この技術に対する抵抗をなくしていった。そうして世の中に技術が行き渡ると、この技術はもはやなくてはならないものになっていました。まだ働くことの必要ない子供ですら、少年マンガの主人公が新しい能力を授かるように、あるいは流行のファッションを身に纏うようなイメージで、この技術に簡単に手を出した。例えば赤外線が見えるように、目をカスタマイズする。残っている人間のパーツと機械のパーツが融合するように、バランスを見ながら。そのときは単純に蛇の感覚が手に入れたらどうなるのか知りたいという好奇心で、体を改造した。

けれども新しい技術には予想もしないトラブルが付きまとうものです。能力とともに生産性は上がっていき、生活はより充実したものになっていくことは疑いようがないと思われていた。ここでいう生活が充実したものになっていくというのは、過去と比較したときに、自分は過去の自分より有能であり、周りと同等に優秀であるという安心感だった。しかし私たちは体をロボットにすればするほど、過去の記憶が失われていることに気づけなかった。若者にとって過去は咄嗟に振り返るようなものではない。次々に変わっていく流行に乗り遅れないことが何より大事だった。(それに関心を払わないということは、周りと能力に差が出ても構わないと思っているということだった。もちろんそんな人間はいなかった)老人は遅かれ早かれやってくる死の恐怖から逃れるために、栄ある過去、そうでなくとも子供時代の些細な温かい記憶を振り返る時間は大切なものだった。彼らは体のパーツをロボットにしたときに、自分の記憶が抜けていったことにすぐ気づきました。けれども、これが社会的に問題視されるまでには、随分と時間がかかりました。失ったのは家族や友人と当たり前のように過ごしてきた日々、ふと人と雑談したときに、エピソードの中にいたはずの人物の記憶がすっぽりとなくなっている。しかし認知症のように、食事を取ったのかどうか、人とした約束などは問題なく覚えていられるのです。能力自体が向上して問題なく生活が遅れているのに、何を問題視する必要があったのか。それに大々的に改造した一部の老人にとって、もはや死は差し迫ってくるものではなくなっていた。過去や記憶に固執することは、技術によって解決される死を恐れている、愚かな考え方だという風潮が広まっていくにつれて、大抵の老人は自分が失っていくものに気づきながら、それを隠す方を選んだ。盛りある命ではないという意識は残っていて、それに釣り合わない活発に動ける体を持っている。活発に動けたら何をしたかったのだったか、過去に思いを馳せても全てがぼんやりとしていて思い出せない。気力がわかない。与えられた体にふさわしい仕事を言われるがままにこなす。気づけば彼らはロボットの体を手に入れることで自分自身の人生を謳歌するのではなく、ロボットとしての人生を全うしていた、ロボットそのものになっていた。新時代の痴呆と言われましたね。

この事実が明らかになったときには、もう全人類が全身をサイボーグ化してしまっていた。そして人々は寿命が延びた分、記憶が失われることに頓着しなくなった。できなくなったと言ってもいいかもしれません。だから私は能力を変え、仕事が変わったことはデータ上知っていても、それに対して感情の起伏は特にありません。変わり続ける感覚に、保持できる感情がないのです」

 僕はこの話を聞いて、うまく想像ができなかった。僕が願ったようにふーくんの目が見えなくなれば、確かに世界の感じ方は変わってくるだろう。それを極めた感じなのか? 僕たちには人間の体というベースがあるけれど、異世界にロボットたちにとって、もはや人間が人間の形をしている必要はない。大事なのは、目的を達するための能力。そのための体。僕もそうなれたらいいのに。ふーくんが来る前にボランティアの人と過ごしていた、日々簡単すぎるドリルを与えられてこなしていた時間が、今となっては一番幸せだったかもしれない。必要なのは武器じゃなくて、流れていく時間を無味乾燥に消化していくことだったのではないか。最低限の能力が強化して、それを軸に自分自身を守っていくことだったのではないか。いけない、こんな考え方は。こんな考え方をしたら、両親の前で呆然としてしまいそうだ。いや、それはいいことなのかもしれない。少なくとも、弱みを見せずに済みそうだ。

 「……それでなんでふーくんは君を恥だって言ったの?」

 「彼は私に聞きました。なぜ目的を達することを延々と繰り返す世界の中で、リンクスは再び作られたのかと。彼の存在もまた目的を達するために必要だったのかと。

 ええ、必要でした。特に生まれながらのロボットにとっては。初代リンクスは優れたサイボーグの研究者であると同時に、ロボットの開発者でもありました。彼が作ったロボットは私たち同様にほぼ不老不死となって今も活躍しています。彼らは私たちが精神を機械に移す過程で混乱している間も、学習し成長し続けました。今では世界の頂点に君臨し、世界が滅びないように、実験体である瓶詰の天体の情報を分析し続けています。そこまで膨大な量の情報を扱えるのは、いくらどんな能力だって誰でも手に入れられると言っても、彼らだけでした。はじめ世界を支配しようと目論んだ輩が、そのロボットに精神を移植しようとしたところ、ことごとく死んでしまった。そのロボットだけは誰の精神も入れられないように、初代が手を施していたのです。彼らが作られたのは、あなたたちの世界でいう第三次世界大戦のような時代でした。いつ誰が核兵器のボタンを押して、世界を滅ぼしたとしてもおかしくはない。そんな緊迫した状況で作られた彼らに与えられた使命はただ一つでした。《人間を生かせ!》そのために彼らは私たちの惑星に似せた天体を作り、様々なシュミレーションを行った。それにはキリがなかったけれど、彼らに疲れる体も感情もない。それでもある日惑星が誕生してから現在までの年月の倍の時間、この惑星は滅びることはないという統計が出ました。我々は喜んでいたが、彼らは内心焦っていた。彼らはロボットとして与えられた目的を果たしたかったものの、もはや周りに生身の人間は一人もいない。たしかにロボットの体を手に入れたことで、人間と呼ばれていたものが滅びる心配はしばらくしなくていい。では今の私たちが生かすべき人間とは何なのか? 彼らは目的を修正するか、改良する誰かを必要とした。そこで一度原点に返り、生身の人間が生きていける環境を最低限整えると、リンクスのクローンを生成した。そうして作られたのが、現在のリンクスです」

 「新しく生まれてきたリンクスはその目的に何か変えるように指示したの?」

 「いえ、何もしませんでした。今まで起こったことを聞いて、《今のままで君たちは正しい》と肯定されたことで、純粋なロボットたちは混乱を乗り越えて、目的に打ち込めるようになりました、けれどもこの話を聞いたとき、ふーくんは笑い出していました」

 「なんで?」

 笑い出すような話だっただろうか。正直理解が追い付かなくて、自分と無関係な物語を聞かされているような気持ちになってしまったんだけど、どこがおかしかったのか?

 「私が聞いている限りでは、彼の言っていることは支離滅裂というか、何を言っているのか、さっぱり理解できませんでした。同じ世界に住むあなたにならわかるでしょうか? 録音がありますが、流してみますか?」

 「うん」

 ふーくんの化けの皮を剥いでやろうと思った。僕らの前では見せない本性がそこに表れているかもしれない。

 「『おまえたちはたしかに持続しているけれど、もはや生きているとは呼べないだろう。』」

 施設でないところでは「おまえ」なんてそんな乱暴な言い方をするんだ。僕を目の前にても、内心「おまえ」と呼んでいたじゃないか? 『おまえは孤児で、かわいそうだ』

「『目的を与えてロボットを支配するのではない、《生かせ!》と目的を与えられたロボットの都合がいいように、もはや自分が何者かもわからずに歯車になっている。自分がどれほどの大きなのか、細かい歯を持っているのか、何の役割を果たしているのか、歯車が動かしているさらに大きな機械の全貌を知らない。その機械すら、また何かを成し遂げるための道具に過ぎないのかもしれない。……君たちは道具にすらなれていない部品の一つさ。誰もが一人一人違う答えが出せるはず生きる目的を、機械に与えてしまったのだから、誰一人自分がどんな人間なのかと言えるような過程を知らなくて、なぜ人間だなんて名乗れるんだ。倫理観すらなくして様々な天体を実験対象にして得るのは、覚えていることすらできない末永い人生だというわけだ。本当にうれしいと思ったのか? 失われたものを見ないことにするために笑っていただけなんじゃないのか? 失っていることすら気づかずに笑っていたなら、その笑いのどこに意味を見出す? そしてこの世界を作り上げたロボットはといえば、目的を成し遂げたことに焦っている。目的は願いがあってはじめて生まれるものだ。ロボットには自分の内側から湧いてくる願いなんてなかった。目的を作れないから、安直に目的を持った生物を試験管で作り出そうとした。

 ……生み出されたリンクスが何を思うのか、考えたことはあるか? 彼は何を思っただろう? 生まれてみれば、そこに自分と同じ人間は誰一人いない代わりに、ロボットたちが神を崇めるように目的を授けてもらえるのを待っている。そりゃ《今のままで君たちは正しい》という他なかっただろう。初代が考えた《生きろ!》という目的自体は、時代背景を考えれば皆が願っていることだったし、そこに意味はあった。ロボットたちもまた悪くない、ロボットは人間の手段として与えられた目標を達成しようとしただけだから。でも人間は? アダムとイブはリンゴを食べて、不老不死でいられる楽園から追放されて、人間となった。その末裔の僕たちはリンゴを食べて、ここにいることになったのを知っていたはずだ。生きるために罪を犯してしまう人間がたくさんいる。罪に苦しんで、一生背負っていくのだと覚悟を決めた人間がいる。その罪は周囲の人の目が鏡のようにありのままの自分を映すのと同時に、隠しようのない感情を含んでいることに気づいたときに感じた。そうでなければ、自分の過去を振り返ったときに、顧みられることなく切り捨てられた存在を思って、僕はなぜここにいていいのだろうかと、自分を責めた。自分が何の恩恵を受けてここにいるのか考えた、その恩恵を受けてしか生きられない現在の自分自身を恥ずかしく思った。もっと感覚的に自分に流れる血がどんなものか考えた。あの両親の血を半分ずつ混ぜてできたのが僕だ。ひどく濁って、汚く感じられた。僕が罪を犯していなくても、この血にどんなものを混ぜても構わない、その結果として生み出しても構わない、そしてその責任を取るつもりなんてない。その奔放さが、たしかに僕の中で流れていることに、生理的な嫌悪感が拭えない。きれいになりたい、と思った。血が赤く、鉄臭くあることとは別に、人が踏み入れないないような自分だけの守るべき場所を持ちたい

 ……感情的になってしまった。でもリンクスだって似たように思ったんじゃなかったか? 人間としての感覚をなくし、それについてくるはずだった記憶もなくし、生産者になった人々。でも消費者はいない。リンクス一人に消費者になった。人々が感情をなくしたのはなぜだったのか? ユートピアをつくると見せかけて、人間を人間でなくす一線を越えさせた初代リンクスの技術のせいだ。そして早すぎる時代の乗り物に何も考えずに乗っかって、消費した人間のせいだ。生み出した人間の願いなどつゆ知らず、便利とあれば弊害も知らずに使ってみた。その結果がこれだ。生まれてきたリンクスはコピーとして、初代が生み出してしまった技術に責任を感じた。人々が失ってしまった記憶を思って、心を痛めた。もはや誰も必要としない人間の営み、家族や友人、人と人がつながりあうぬくもりを自分は必要としているのに、誰も理解してくれない苦痛。でもそのロボットによって、試験管から生み出された自分、モルモットとどんな違いがあったのだろう? それでもたった一人の人間として十分すぎるほどの環境を与えられた自分。人間が宗教に頼って死の苦痛から逃れたように、目的をなくすことを恐れたロボットが仮初めの神をこさえた。人間しか持たない罪の感覚を当てにされた気分はどんなものだったか。

 ……彼に恥だと名乗れよ、自分から。僕の目なんかじゃなく、彼が求めているのはむしろ自分を人間の目で見てくれる誰かだと思う。彼は罪を負う責任を感じているのに、自分がこの世界の神様のように祭り上げられているのが苦しいのさ。口にしなくても瞳で、誰かに責められていることがわかるのは、辛いことだ。でもそれ以上の液晶画面に反射した自分の顔を一人で眺め続け、自分に罪を課すのはそれ以上に辛い。一人きりだと思ってしまうから。誰かに責め立ててほしい、誰かが懺悔してほしい、失ったものを知っている誰か、その価値を知っている誰かに会いたい。それに気付いてほしくて、おまえを地球に送り込んだんじゃないのか?』」

 ロボットの瞳は赤がオレンジになって少し落ち着いたかと思えば、マグマのようにエネルギーに満ちた光を放つことがあった。ロボットに感情がないのかもしれないにしても、そうして色が変わっていくと、たしかに話を聞きやすかった。

 「それで、君はなんて思ったの?」

 「侮辱です。戦争も貧困もない私たちの完成された世界、それを作り出した人間に対して恥だなんて。確かに私たちは家族や友人の関係性の中で築かれた自分、夢を追いかけたり、右往左往して自分のできることを探した記憶、過去から現在までが地続きの場所にあるという感覚はない。今している仕事が全てです。それのどこが恥なのですか? 悔いのある現在を生きているから、過去なんてものに惑わされるのですよ。彼にもそういってやりました。そしたら『いいや、俺は今必要だと思っていることをすべてやっている。それでも何かを引きずったような感覚を持って、今を生きているのは、自分が自分であるために必要だった人がいて、その子との関係性があって、はじめて俺という人間は出来上がるはずだったのに、それを理不尽にその子の存在すらないものにされてしまったからだ。それがどんなに無責任で、恥知らずで、誰の保身のためのそうなったのか、俺は知っている。罪の意識を感じ、罪を被って生きていくべきその人はいけしゃあしゃあと笑っている。あの醜さは俺の中にもたしかにあると感じてしまう、身をもって。当然その子の中にもある。それでも構わない。ただ気まぐれに俺だけが恵まれた場所にいて、あの子は捨てられたことが許せない。替われるものなら替わってやりたかった。でもそうしてくれと訴えるような力は、当時の俺になかった。あのとき感じた無力感と罪悪感はどんなに努力しても拭える気がしない。そんなことで悩むなんて無意味だと言われたら返す言葉もないけれど、あの記憶なくして今の自分はない。

そういうものをおまえたち持っていないんだね』と言うのです。無意味でしょう。第一その子はふーくんに対して同じように思ってくれているのでしょうか。彼が一人で悩んで、一人で問題を大きくとらえすぎているだけかもしれないではないですか。あなたが以前言った通りです。人の不幸は想像の中のもので、現実ではない。彼が想像している不幸の渦中にいるその子は、存在していないし、それを助けようなんて不可能ですよ。諦めた方がいい」

 あきらめたほうがいい。人の思いやりは、必ずしも助けにならない。それを僕はふーくんとの関係を通して学んだことだった。漁師が無作為に網を投げて魚がかかること願うような思いやりと、それを蜘蛛の糸のような救いの手と勘違いしてしまう、余裕のない僕、二つが揃って恥は、生まれてきたのかもしれない。あの写真を見たときの燃え上がるような恥の意識、誰かに見られてなかっただろうか? 見られているわけにはいかない。恥はこれからも感じ続けるかもしれない。それでもそれを周りに悟られそうになるような危険なことは、二度と起こさせない。これでよかったんだ。あの目は写真をエサに、網にかかってもがく僕を見たかったに違いない。 ……恥と暴力は釣り合うんじゃない。恥をさらしものにしようとしたふーくんを罰するべきだというだけだ。

 「ふーくんの目は、今どこにあるの?」

 「ここにありますよ」

 人形は背中に手を回すと、空中に丸底フラスコを浮かべた。薄黄色の液体の中に、目玉が2つプカプカと浮いていた。まるで手術して摘出したかのように、目玉だけでなくその視神経もきれいに保存されていて、水中をひらひらと揺蕩っている。

 理科室に並んでいるホルマリン漬けの蛇を見て気持ち悪いと思っていた。本当にこんなことをして研究の足しになっているのか、意味はあるのかと疑っていた。でもこの瞳にはある。この光景を目に焼き付けておこう。同情はしない。自分でふるうと決めた暴力が、生々しい姿で目の前に現れたから、どうだと言うんだ。こうなるだろうという想像はついていたはずだ。それに対して後悔することは、その暴力の意味を無くすということだ。暴力は正しくない、知っている。でもこの暴力に意味と理由はあった。偽物の赤ん坊の写真を用意するようなひとりよがりな善意と同じように、ひとりよがりな復讐があった。この犠牲をもとに、僕は過去と決別する。どうして今僕はここにいるの? なんてセンチメンタルな自問自答はもうやめたい。

目が見えなくなったらふーくんはどう変わるんだろう。生活が変化することは当然として、内面はどう変化するんだろう。目が見えないことを恥だと思うだろうか?

「ふーくんは目を奪われるとき、抵抗しなかったの?」

「しませんでしたよ。私もなぜなのか不思議に思いましたが、私も感情的になってしまっていたので、あまり詳しく聞くことはできませんでした。

 「……両親は今どうしているの?」

 「この後すぐでよければ、この図書館の横にあるカフェに待たせていますよ。少し催眠をかけてここまで連れてきましたが、彼女は——あなたの母親はあなたについて本当のことを喋ると思います。写真も彼女自身が持っている様子だったので、私が奪ってくるより、直接受け取った方がいいと判断しました」

 「……今会いに行ってくる」

 「そうですか、私の役目はここまでですね。ではさようなら」

 僕が席を立つと同時に人形は消えて、本棚の間から人の声がした。

 カフェは混んでいる様子だったが、すぐに入ることができた。常連客しか来ていないような印象を受けるこじんまりとしたカフェだったけれど、低い天井、分厚い壁で仕切られた席は洞窟みたいで、僕はもう十歩も歩かないところに母親が待っているというのに、緊張を通り越してわくわくしていた。どうしてだかわからない、でも母親は僕を目にしたらきっと笑いかけてくれるに違いないと思った。食事できるところといえば、ファミリーレストランしか入ったことがなかったので、暗い店内と、オレンジ色の間接照明、その光に当てられた華奢な食器に魅せられた。慣れていない場所に来たのに、なんだか居心地がいい。ふーくんの目がもしまだ見えていたなら、きっとこんな薄暗がりを感じているだろう、あの濁った液体の中で。あんな花柄の食器に囲まれているのが、本当は似合うはずなのに、電灯に吊るされたテディベアは、今も揺れているのかな。誰かに撃たれて。僕の頭は急速に回転して、関係がありそうなものを次々と思い浮かばせた。そんな思い出と比べて、今見ているものが、今まで見てきたものの中で一番きれいなものに感じられた。……ずっと母さんに会ってみたかった。嘘でいいから、ごめんねと言ってほしい。許せたらいいのに。——しっかりしろ、これから写真を破くんだ。僕は拳を握り込んだ。

 店員に案内された席に着くと、そこにはきれいな女の人がいた。年齢はパッと見てわからないけれど、生活感のない人だった。例えば施設にいる職員は毛玉のできたニット、くたびれたエプロン、色あせたジーンズなどを着ている。僕の恰好も似たようなものだ。誰かのおさがりか、どこから寄付された衣服。でもその女の人は今ショーウィンドウに並んでいるをそのまま買ってきて身につけたような、ワインのような色のタートルネックニット、黒いパンツ、レザーのパンプスは磨き込まれてつやつや光っている。細い手首に小さい金色の腕時計をしていて、時間を見ていた。待たせているとあの人形は言っていたけど、具体的に時間を決めていてのだろうか? 僕は知りもしない約束の時間に遅れたのかと思って焦ったが、もう少しその人の様子を観察してから出ていきたかった。

 うつむいた顔にかかる黒髪もまた新品のようだった。今洗ってきたばかりのような艶があって、高級感のある服となじんでいた。裕福で、そこから生まれる余裕のようなものが、彼女から滲んでいた。その余裕はカフェと一体になっている。僕は急に母親からどう見られるのかなんて考えもせず、汚れたトレーナーとジャージで来たことが恥ずかしくなった。母は僕にどう見られるのか、気にしているのだろうか? 僕を捨てたくせに、保護者会に来る上品で優しい母親のような恰好で来たその女性に、僕は混乱していた。あるいは僕と会うことなんて気にも留めておらず、このあとの予定に合わせてそういう服を着ているのか? それともあれが彼女の普段着なのか? 自分の日常にいるどの大人の女の人とも違っていて、近しい存在のはずの母が未知のものに思える。もちろん初対面なのだから、「未知」に決まっているのだけど、引き出しから出したあの人形がしゃべりだす直前のような間が苦しい。

 彼女はいきなりこちらを見た。整った顔、白い肌に赤いリップが映えていて、テレビの中にいる人のようだった。母は笑って僕を出迎えた。けれどもその笑顔は親しい人に軽く挨拶するときの控えめなものと違って、まるでバラエティー番組で正体の伏せられていたゲストが現れたときの、驚きとともにさざなみのような拍手が起こる大げさな歓迎だった。母は目を見開き、感動したように口を手で隠して瞳だけにっこりすると、どうぞ座ってというように手を差し出した。その手に煽られるように窓から入る風が僕に直接当たって寒かった。さっきまであんなに温かかったのに。隣の席を見れば、真冬に窓を全開にしている母に眉をひそめているおばさんがいる。座った椅子も、机もキンと冷えている。

 「むかいに図書館があるでしょ、そこで自習しているらしい高校生のカップルが、女の子はまじめに勉強したいみたいなのに、男の子は女の子に構ってもらいたくて、仕方ないのね。ずっと話しかけていたら図書館の人に注意されちゃったみたいで、男の子がすねて図書館から出てきてしまったの。女の子は仕方なく追ってきたんだけど、嫌そうな顔じゃなかった。あの子もまじめに勉強するふりだけして、内心男の子に構ってもらえるのがうれしかったのかもね。その会話を聞きたくて窓を開けたの! 結局全然聞こえなかったけど、今2人で公衆トイレに入っていくところが見えたわ。若いっていいわね~、私も若くなりたいわ!」

 挨拶もせず、一方的に話し続ける人。あの図書館はよく行っていて、不真面目なカップルが相合傘や猥雑な言葉を机の断面に刻んでいるのは知っていた。イニシャルを見て、ひょっとしたら、施設の先輩がやっているのかもしれないと思った。恋人ができたって呼べる家があるわけじゃないから、その果てにたどり着く個室と、それに伴うスリル。「ご注文はいかがいたしますか」と聞いた店員に「ココアよ、まだ十歳だもの」と勝手に注文を済ませる、女の人。僕の年齢は、覚えているのか。

 「雪くんはー、赤ちゃんのころの写真がほしいのよね? 雪ってこの季節にぴったりのいい名前ね、私がつけたのよ?」

 知ってた? とでも言いたげに首をかしげている。

 「あなたの名前はなんですか?」

 『本当にお母さんですか?』

 「いやだわ~、まるでお見合いみたいじゃない。どうせこれっきり会うこともないのだろうし、つまんないこと聞くのやめてよ」

 こちらを見もしないで鞄をガサガサ漁っている。ピカピカでブランドのロゴが入っているけど、そのロゴが横に間延びしてみえるくらいに、なかはパンパンだった。タバコをくわえて、ライターで火をつける。開いた窓からふっと煙を吹き出す。風が煙を押し戻して、僕の周りを甘ったるい香りと温かさが漂った。乾燥した僕の肌がしっとりと包まれる。

 「写真手に入れるの大変だったのよ? あの子は肌身離さず持っているか、部屋のどこかに隠しているのかのどちらかなんだもん」

 ねっとりと絡みつくような目で煙ごしに僕を見下ろす。催促するような声。何を求められている? 自分の子供が目の前にいるというのに、この人はまるで他人事のようだ。十年前に産んだ自分の子供がなぜ写真を欲しがっているのか、気にもならないみたいだ。あるのは自分がつけた名前、自分が苦労して手に入れた写真。それを僕にタダであげてしまうのが、惜しいのか。ねぎらってほしいんだ。自分がしゃべるのに心地いい合いの手がほしい。でも「ありがとうございます」だけは言いたくない。

 「……あなたのものじゃないのに、勝手に持ってきてよかったんですか?」

 「いいのよ、この赤ちゃんを抱いているのは私だもん。私が映っている写真をなんだから、私が好きにしていいじゃない。それにしてもよくあの子はこんな写真、後生大事に取っていたものだわ。私はこの写真を撮られたことさえ忘れていたから、はじめて青い目の赤ちゃんを見たとき、なんてかわいいんだろう、やっぱりハーフの子供っていいなあって思った。ほくろを見て、ああ私の子かって当時のこと思い出したら、やんなちゃったけど」

 「……どうして僕の目は青いんですか?」

 「旦那が仕事ばっかりで私に構ってくれないから、私習い事していたの。英会話習っていて、そこの先生がすごいかっこよくて、授業時間外も会って、勉強教えてもらってたんだ。そうしているうちに子供ができたの。私、てっきり旦那との間にできた子かと思って、そのまま出産することにしたんだけど、生まれてきてみたら、瞳が青いじゃない? ごまかしがきかなくなっちゃって、あなたを養子に出そうと思ったんだけど、よくも悪くも人目を引くし、日本人の両親が明らかにハーフの子供育てたら、すぐに養子だってばれちゃうじゃない。貰い手がいなかったから、乳児院に入れたの」

 事実が並べられた。ポーカーをしている相手の手札が開示されていくような感じ。僕は施設で本当にお金が必要なときに上級生がやるポーカーに混じって、少しばかりの小遣いを稼いだことがあった。大事なのは強い手札を必ず毎回引くことじゃない。弱い手札が強い手札に見えるように、ベットする金額をコントロールすることが。この人は強い手札が来たら高額を賭けて、弱い手札が来たら賭けすらしないで降りてしまうんだろう。賭けが遊びにすぎないから、真剣に嘘をつかない。いやそれ以前だ。この人は自分の出した手札が強いのか弱いのかも知らない、ただのトランプ五枚。自分が披露した事実がどれほど相手に影響を与えるのか考えていない。僕にとってその事実が、真実が明らかにされているところだということがわからない。僕の手札は、事実——今どんな生活を送っているのかは、どう脚色してもこの人になんの影響もない。……勝てない。

 「この写真は誰のものだったんですか?」

 『僕の赤ん坊のときの写真を大事にしてくれるような人はいたんですか?』

 「あなたの兄よ、今二十歳だから雪くんと十歳差だね」

 「兄は僕が乳児院に入ったとき、どうしていたんですか?」

 「普通よ、あの子が十歳のときは、ちょうど二分の一成人式っていうのがあって、赤ちゃんのころから十歳になるまでの写真を並べて、見返してみましょうと言われたの。あの子の写真はそれなりにあった。遠足なんかに行くたびに、学校で撮られた写真も買っていたし、なんの問題もなかったわ。あの子は優秀だったし、自分一人でさっさと教師が納得するレベルの作品を作ると、あなたの写真ばっかり眺めていたわ。産まれてきた赤ちゃんの目が青かったから、旦那はすぐに自分の子供じゃないとわかって、写真を撮ることをよしとしなかった。だからその一枚しかないの。乳児院に入れたとき、そのデータも消したはずだったんだけど、まさかプリントアウトされているなんて思わなかったわ。

 でもあの子なりの反抗だったのかしら。自分が小学校に行っている間にいなくなっている弟を見て、弟は死んだと説明したけど、葬式もしないしあの子は賢いからそれでごまかせなかったみたい。つくってあった自分のアルバムを見て、一枚ずつ自分の顔をマッキーで塗りつぶしてから、全部シュレッダーにかけて、私のライターを使ってそれに火をつけた。家中煙臭くてかなわなかった。馬鹿じゃないの? あなたの写真も一枚もなくなっちゃったじゃない、学校に何を提出するつもりなの? って聞いたら、母さんはこんなときでも学校の心配をしているの? と信じられないようなものを見るような目で言ったわ。ええ、そうよ。だってせっかく今まで皆勤賞で、委員長もやるようなしっかりした子として見られているのに、その立場を手放すのってもったいないじゃない。その母親の私だって、自分の子の写真すらまともに用意できない母親みたいに思われるのはごめんだわ、あんたが勝手に火をつけたせいでね。庭でそんなもの燃やしたら、ご近所さんにも迷惑に思われるかもしれない、考えなかった? ふーくんは頭はいいけど、机に向かってばっかりで人の気持ち想像できないよね、青い目を見て出てったあの男にそっくり!」

 「今なんて言った?」

 「は?」

 「最後になんて言った?」

 「頭ばっかりで全然人の気持ちなんてわからないところ、父親似なのよ、私の息子。あなたの名前、雪ってお兄ちゃんの名前と揃えてつけたのに、あーあ、捨てたくなかった。あの人にもっと甲斐性があったらな」

 「兄は、なんていう名前なの?」

 「冬美よ、女の子みたいでしょ。あの子が産まれたとき、ちょうど初雪が降ったから、そういう名前にしたの。本人は嫌っているみたい」

 そうしてぴらぴらと風とタバコの煙になびかせながら出した写真は、僕があの日ふーくんの鞄を漁ってみつけたものと同じだった。

 

そこから先のことは、よく覚えていない。どうやってあのカフェから施設に帰ったのか。施設でどう振る舞っていたのか。感情を隠しながらの生活に変化はなかったはず。食事は食べていた、学校に行った、消灯時間に床に就いた。無味乾燥な生活を消費する夢は叶っていた。けれども次第に感情は装ってその場を濁すのではなく、締め出すものになっていた。思考もまた同じだった。考えてしまったら、耐えられない。ふーくんは、兄は、どんな思いで僕の勉強を見ていてくれていたのか、そのときどんな顔をしていたのか、彼が選んだ写真にそれは写っていた。ふーくんが普段聞いたこともないような険しい声で、人形を責め立てた気持ちを、僕はようやく理解した。たった一人、当事者は無垢であって、加害者にとってはさして気にも留めない記憶、そしてその両人を、自分を構成する存在として持った傍観者が感じる意識——ふーくんはリンクスを自分と重ねて捉えていたんだろう。当事者のロボットたちは人間としての感情を持ち合わせず、延命に特化した機械に成り果てた。そしてそうしたのは自分のオリジナルだけれど、彼はこんな状況を予期していたのだろうか。人間が人間でなくなる様を見て、笑っていたのか? ひょっとしたら彼の側に機械に成り果てている初代リンクスが物言わず働いていたのかもしれない。だってそうじゃないか。他の人間が不死になったのに、彼だけ亡くなったとしたら、それはあんまりに都合がいい死に方だ。他に人間には最早できない人間らしい死の瞬間、意識が遠くなっていく感覚を感じていたのかもしれない。すべては憶測に過ぎない。でもたった一人、快適すぎる場所で地球を眺める気持ちはどんなものだったのか? 

……わからない。僕はリンクスじゃなくて、感情を無くしたロボットに歩み寄り、過去と決別しようとした。今を生きるために、過去はないものにしようとした。僕は恥の象徴をリンクスのために選んだんじゃない、今を妨害する過去を障害物として取り除こうとし、実の兄の目を奪って、母親に会った。過去はこれからより一層今を浸食していって、やがて僕が今に生きていることさえ忘れさせてしまうかもしれない。正反対の結果になった。……みんなそうなのかな、ここの孤児たちは。

同級生が自分史年表をつくるとき、幼稚園のころ七夕に書いたという短冊を持ってきた。憧れの仮面ライダーになりたいという夢は当然、もう願っていないだろう。でもそうやって彼が夢をふくらませている間、僕や他の孤児は夢の代わりに過去をふくらませていた。ふくらんだ夢がしぼんだように過去がしぼんでいくこともあるんじゃないかと思っていた。でも実際はしぼむことなく延々とふくらみつづける過去が今を圧迫しているのを感じている。過去がはじけてしまえと願っていて、そしたら気持ちだけでも自由になれると思った。母に会って、過去の風船は割れた。僕を圧迫しているものは、もうそんなものじゃない。もっとひどいものだ。ふーくんが今を精一杯やっているなかで、引きずり続けたもの。頼むから、もうボランティアとして僕の前に現れないでほしい。現れないでくれ。

でも兄は来た。冬の傾いてきた太陽が柔軟剤を使わないで洗ったタオルを干からびさせている夕方のこと。ふーくんはいつか僕に写真をくれたお姉さんに腕を組まれて、一歩一歩慎重に歩いている。2人は寄り添って何かを話しているようだ。キョロキョロと当たりを見回している。遊んでいる子に声をかけた。

「雪くんいないの? ふーさんあんまり動けないから、ちょっと探してきてもらっていいかな」

僕は珍しく外にいてしまった。隠れるれるような場所はろくになくて、水道の裏、体を丸めていると、非情にもみつけに来る小さい子。

「みつけた!」

手をぐいぐいと引かれても動かない僕の背を、蹴とばす上級生。

「早く行ってやれよ」

 僕はいっそ顔面から転びたかった。そしたら上を見なくて済むから。でも転んだら咄嗟に手が出てしまって、ホースから漏れた水で濡れている地面についた手は滑ってしまった。僕はふーくんの方に反転するように転がった。お姉さんのびっくりしたような顔。ふーくんは茶色いサングラスをかけていた。「やーい、派手に転んだ!」という声で、ふーくんはお姉さんを押しのけて、こっちに駆け寄ろうとした。でも一、二歩進んだところで、動けなくなり、見えない目で僕を探そうとしているのがわかった。サングラスが反射して、目が合ったような気がした。

恥は僕を見据えていた。

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